清らかな自己と向き合う時間

禅のおしえ

お寺というのは、たいてい山とともにあり、

真光寺も、瓦谷山(がこくさん)という小さな山とともにあります。

 

前日に降った雪がまだ残っていて、

気温も低く、外気はとても澄んでいて気持ちの良い寒さでした。

しかしこの寒さの中、たとえ建物の中とはいっても、

じっと40分も坐り続けるのは、

今の時代は修行中のお坊さんでもしないそうです。

 

坐禅堂は、冷暖房完備です。

快適な環境で坐ることができます。

 

 

12日の土曜日は、袖ヶ浦の真光寺にて坐禅会の日でした。

 

しずかに坐って、自分自身の本質を見つめること、

そして、それを受け入れ認めること、

坐禅とは、そんな自分と向き合う清らかな時間と考えると、

なにやら坐禅というものをしてみたくなる人も多いと思います。

 

しかし、私が通っている禅寺は

禅宗の一つである曹洞宗という宗派で、

開祖の道元禅師という方は、

自分を見つめる「見性」という言葉をひどく嫌っていたようです。

(※禅宗というような宗派を分けることもしなかったようです)

 

自分を見つめ、自分を知り、それを認め、受け入れ、

そして清らかな自分とともに調和の中に生きていこう、

そんな風に何かを悟ったとしても、

その悟ったという体験にしがみついて立ち止まってしまう、

それを徹底的に嫌っていたそうです。

 

悟りを意識したり、求めたりするとその傾向が強くなるので、

「心身脱落」という言葉を使われていたといいます。

 

苦行は無駄である

そうお釈迦様も言われていたといいますが、

荒行、苦行をやり遂げ、そこで何かを得たとしても、

位があがったとしても、

何かの拍子に、一瞬光がさして、

「そういうことだったのか・・・」とわかった気になったとしても、

それが日常の普通の生活の中で生かされ続けなければ、

意味はないどころか、かえってマイナスになることすらあります。

 

自分を受け入れ認めることができる人は、

自分以外の人に対しても自然にそれができます。

そういうのが清らかな状態なのかもしれませんが、

そんなの意識しなくても、この世は調和がとれている、

といいます。

 

 

 

  

新入りの猫シャン!
まだ、みんなの中に溶け込めていないのか、
よく一人でいるのを見かけます。
名前がまだわかりませんが、
私の大好きなペコちゃんも、初めはそうだったな~・・・。


ペコは、奥の白に黒。手前は大先輩のリオ。
人の足は、住職の奥さんですが、
リオがいるときは、ペコは奥さんに甘えたくても
リオより奥さんの近くには行けません。
うまく、調和が保てる距離感をとっています。