26日水曜日、真光寺の聖典講読の会に行ってきました。
今テーマにしている『原始仏典をよむ』も、
もう第五章が終わってしまいました。
第五章は「悪魔のささやき」というタイトルです。
この悪魔のささやきの悪魔というのは、
お釈迦様の内なる煩悩の声としており、
実際に悪魔が出てきて何かをささやくというものではありません。
原始仏典では、
お釈迦様を神のように超越した存在として神格化しておらず、
欲望もあれば好き嫌い、飢え、妄想にとらわれる、
だらだらする、恐怖におびえる、何かを疑う、
見栄を張るなどの煩悩を八つの悪魔の軍勢と表現して、
向き合っていた様が書かれています。
やがてお釈迦様が出家して6年の難行苦行の道に入るのですが、
その前に、ある二つの修行をしたといわれているそうです。
一つは非想非非想処(ひそうひひそうしょ)
非想は思わないこと、
非非想は非想を同時的に否定すること。
どういうことかというと、
あいつが悪い、こいつがキライ、
そんな自我にまみれたことはもう何も考えないようにしよう。
だがしかし、そう思っても、思えば思うほど考えてしまうので、
考えないようにしようというのを
やめようと思うことをやめよう、考えないようにしよう、
ということだそうです。
「俺、今の会社やっぱやめるわ」
「俺は、やめるのをやっぱやめるわ」
「私は、やめようとしたのをやめるのをやっぱやめたわ」
こんなCMがあったのを思わずおもいだしてしまいましたが、
坐禅をしているときなど、
無になるなんて、簡単にできないですし、
そもそも無になるということがどういうことか、
よくわかっていないわけなので、
無になろうと思うのをやめる、と思うのをやめる・・・、
といった感じになるのでしょうか。
そしてもう一つは、無所有処(むしょうしょ)
これは、物を持たないことだそうです。
一文無しの素っ裸、みたいな感じですが、
ところが捨てられないものが一つだけある。それが自我。
一つだけ自分の身体は捨てられない。
ナイフで刺されそうになったら逃げるだろう。
そのようにどうしても人間には捨てられないものがある。
お釈迦様はそこに気が付いて、
6年の難行苦行が始まったといわれているそうです。
でも、その結果、
「特別のすぐれた聖なる洞窟の智慧」
を得ることはできなかったので、
修行を打ち切り、
ネーランジャラー河で沐浴して、
村の娘さんが施してくれた乳粥を得て元気をつけ、
菩提樹の下の禅定に入っていくとなるようです。
お坊さんの世界にも、位というのがあるようですが、
例えば、苦しい修行を達成すると、
〇〇様と神のように崇め奉られるので、
そうなることが目的となってしまうことがあるそうです。
大切なのは、苦しい修行を終えたあと、
毎日の日常をどう生きるか、
本当の修行は、本山から帰った後にある、
行為が慈悲にあふれていないといけない、
スーパートップなどいらないとお釈迦様はいっている、
こんな風に岡本住職はお話しされていました。
無駄なもの、無駄なこと、無駄な人などなく、
すべてが調和していることが大切なのだということです。
自己否定をしたり、
自分の存在価値に不安を抱いてしまうような方は、
比較に目を向けるのではなく、
調和に目を向けると気持ちが穏やかになるかもしれません。
調和に目を向けるとは、
私は、私が、私だって、・・・といった
『私』がなくなることにつながるような気がします。
生まれ日の占いで、
徹底的に『私』を知った後、
それを調和のなかに投じていくのが、
『占と禅を組み合わせる』、
ということなのかもしれない、
そんな風に思えた日でした。
【今日の精進料理】
なめこ・とうふ・オクラの味噌汁
茄子の揚げびたし
ジャガイモのバジルサラダ
おふの酢の物
ミョウガのナムル
きゅうりのきゅーちゃん(自家製)