聖典講読で勉強したことを、
私なりの解釈でここに書いていきたいと思っているのですが、
学べば学ぶほど、言葉を失っていくような状態になり、
ブログのページを開いては何もかけずに閉じてしまう日が続いています。
先月から始まった『原始仏典をよむ』のテーマは、
初回から参加できるので、メルカリで上下巻も買い、
気合を入れていたのですが、
私自信が言葉の羅列を楽しみ理論の中から抜け出せずにいる限り、
相談者の方の心に響くような伝え方はできないだろうと、
改めて感じています。
でも、何もしないでいるよりは何かした方がよい、
そうも思うわけです。
●原始仏典をよむ(上)12ページ~16ページより抜粋。
何の笑いがあるのか。何の悦びがあるのか。
人生は(無常の火に)燃えているのに。
・・・・・なぜ、灯火を求めようとしないのか。
(『ダンマパダ』146)*釈尊の言葉
毎日を充実して生きなけらばならない。
なぜ、充実感のある人生を送ろうとしないのか。
無常迅速なり。
生死事大なり。
しばらく、存命の間、・・・・・ただ、
仏道を行じ、仏法を学すべきなり。
(『正法眼蔵随聞記』二)*道元禅師の言葉
経典のことばは、誰かに向かって書かれていますが、
ああ、そんな人、たしかにいるよな・・・、
これはあの人のことだ、あれはその人のことだと、
誰もが他人事のように読んだり聞いたりしてしまいますが、
すべては、自分に向けられていると考え、
では、自分ならどうするか、どう生きるか、と落とし込んでいく、
経典に限らず日常のタシナメや誰かの批判なども、
そんな風に受け止めていけたらいいと思います。