「開運」と「悟り」

禅のおしえ

占いをメインにやっていた時は、

「開運」というのを一つの目標にしていました。

 

私のところでは、その「開運」に「自力」をつけて、

『自力開運』としていたのですが、

そもそも、「開運」とは?何なのか?

実は、私自身があまりこの言葉を好んでいませんでした。

 

「開運」のイメージは、

金運、恋愛運、結婚運、健康運、仕事運、などの望みがかなうこと、

欲しいものが手に入ること、

思い通りにどんどん道が開けること、

等になるかと思いますが、

これらの道が、占いによって開けるというふれこみ、

さらには、仮に開けたところで、また次が欲しくなるという満たされないスパイラル、

占いを通じて人と関わることによって、この辺の違和感が膨らんでいったのです。

 

 

 

仏教の世界にも、「開運」に似た立ち位置の言葉があります。

それは「悟り」です。

「悟り」を求めて修行をする・・・。

 

 

~ある禅問答~平常心是道

「仏の道とはどういうものですか」

 

「平常の心で生きる、それが仏の道だ」

 

「でしたら、あえてそのような道を求める必要があるのですか」

 

「そうだ、求める必要はない。求めようとすると道を誤ることになる」

 

「でも求めようとしなければ、それが仏の道だとわかるのですか」

 

「仏の道というのは、わかるとかわからないとかいうようなものではない。
わかったら妄想だ。でもわからなかったらどうしようもない。
しかし、もし本当に ”もう何も疑いがない” という心境になったら、
どうってことはない、あたりまえのことを、あたりまえにおこなうだけだ。
わかるとかわからないではない」

 

(日東書院・わが家の仏教・仏事としきたり 曹洞宗 角田㤗隆監修より抜粋)

 

 

「悟る」を目標にし、その特別を得ようと追い求めると、

迷いから自由になることはできません。

 

 

 

 

「お茶を飲むときはお茶を飲み、ご飯を食べるときはご飯を食べる」

瑩山禅師(けいざんぜんじ・曹洞宗の教えを広めた宗祖)の言葉。

 

 

 

特別なことなど何一つする必要はなく、

「あたりまえ」の本当の素晴らしさに心底気づくこと、

それができれば、「開運」や「悟り」などは意識しなくなることでしょう。

 

「開運」と「悟り」、

どちらの言葉も、

なにやら落とし穴があるようですね。